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未来は空にある 02

Author: Runa
last update Last Updated: 2025-11-26 14:02:44

 機械音混じりの声が、私を呼んだ。

「——何? カナタ」

 この子はカナタ。私たちの町『常盤町《ときわまち》』にある、緑の教会の養護施設に住んでいる男の子。

 生まれた時、四肢はあったけど、口と鼻がなかったらしい。義肢の代わりに、顔には鼻から顎にかけて金属製の魔械面《マギアマスク》が装着されている。

 呼吸や食事、発声のために、喉に埋め込まれたチョーカー型の多機能魔械機器《たきのうマギアきき》が、声帯を使って発声している。

『莉愛、大丈夫?』

「えっ? 何が?」

『すごく怒ってたから』

 多分、さっき拓斗が言った時のことを言ってるんだと思う。カナタの席は私の後ろだから、私の様子が見えていたんだ。

「あれは怒るよ! カナタは怒らないの?」

『うん。莉愛が代わりに怒ってくれたから』

 ——いけない。カナタの怒る権利を、私が奪っちゃった。

 カナタは、見た目や機械音の混じる声のせいで、周囲から奇異の目で見られることも少なくない。四肢が全部あることで好奇の目で見てくる人もいるけど、さっきの拓斗みたいに、酷い態度を取る人だっている。

 だけど、私に言わせれば、義肢であることを当たり前に受け入れている方が、よっぽど不思議だ。私は、義肢であることがどうしても受け入れられない。

(どうして私だけが、こんな気持ちになるんだろう)

 過去の出来事を知って、理解はしているつもり。でも、納得はできない。

 この違和感を前にお母さんに話した時、「変なことを言うのね」って、笑って流された。それから私は、この気持ちを誰にも話さなくなった。

「……ごめんなさい」

 私が謝ると、カナタの目が僅かに大きく開いた。

『どうして謝るの?』

「だって……今回のこと、怒るのはカナタの権利じでしょ?」

 んー、と少し考えてから、カナタは答える。

『……怒るの、疲れるし……嬉しかったよ』

 カナタの目元が、柔らかく微笑んだ。

 口が無いから表情が乏しくて、基本的にカナタは無表情だ。眉間にしわを寄せることはあっても、笑うのは結構レア。

 だから、笑ってくれたのが嬉しくて。さっきの拓斗の悪ふざけなんて、どうでもよくなった。

「それなら、よかったっ」

 私も、笑顔で返す。

 肩掛けの学生鞄を手に取り、淡路《えんじ》色のコートに袖を通す。首元には白いマフラーをふわりと巻いた。

 窓からの日差しは暖かいけど、まだ二月。外はまだ寒い。

 横を見ると、カナタも黒いコートを身につけているのが見えた。その姿を確かめてから、私はカナタと並んで自分の席へと戻った。

 帰りの準備ができた生徒たちは、思い思いにお喋りしたり、魔法で遊んだりしている。

 初等部の魔法授業は、歴史や理論の勉強が中心で、実技はない。でも、魔法に慣れるために、決められた魔法なら自由に使ってもいいことになっている。

 今は、触覚魔法を使って折り紙を折り、それを飛ばして動かしている子たちがいた。折り紙で作られた鳥が三羽、フラフラと飛んでいる。

 これは、手紙を運ぶ魔法の基礎で、全ての魔法使いに必須の魔法。

「今日は、ウチに寄る?」

 ノートを鞄に入れてから、後ろに振り返って、カナタに聞く。

『今日もお邪魔していいの?』

「うんっ。お父さんもお母さんも、カナタなら大歓迎だって!」

 カナタとは、初等部に入るずっと前からの付き合い。

 出会ったのは、緑の教会。養護施設だけじゃなく、保育所の役割も果たしている場所。共働きの両親に代わって、私は兄と一緒にそこへ預けられていた。

 教会の図書室の片隅、本を読む小さな姿。話しかけたのは私からだった。最初は全然話せなかったけど、気付けば、カナタの隣が私の指定席みたいになっていた。

 そうすると自然とカナタと兄も仲良くなり、お父さんとお母さんとも仲良くなった。

『じゃあ、……お邪魔しようかな』

「やったぁ! 遊ぼう遊ぼう!」

『宿題してからね』

「うっ……。利玖《りく》いるかな……?」

 利玖《りく》は私の四つ上の兄で、今は高等部一年生。生徒会に推薦されるほど優秀で、普段は寮生活だけど、連休前はたまに帰ってくる。

 初等部の勉強なんて、朝飯前でしょう。

 ぜひ見てもらいたい。

『莉愛って、意外と勉強苦手だよね。授業で指されてもちゃんと答えるから、得意かと思ってた』

「いっぱい頑張ってるんですっ! カナタの方が頭いいよ。羨ましいなぁ」

『そうかな? ……小さい頃から本ばっかり読んでたからかも』

 養護施設の本といっても、絵本じゃない。歴史書や五感魔法の参考書ばっかり。

 頭の良さでいったら、中等部並か、それ以上かもしれない。下手したら、利玖《りく》といい勝負かも……。

「利玖《りく》がいなかったら、カナタに聞いてもいい?」

『もちろん、頑張るね』

 またカナタの目元が微笑んだ。今日は良い日だ。

 賑やかな教室に、先生が出席簿を持って入ってきた。

「はい、では帰りの会を始めます。席に着いてください」

 ふわふわ飛んでいた折り紙の鳥たちは、それぞれの元へ戻り、生徒たちは席に着く。

「早退した人はいませんね。では今日の連絡事項です。明日からの連休中に、中等部で使う羽織と制服が届きますので、受け取れるようにしてください。受け取ったら一度袖を通して、問題があれば連絡帳に書いて月曜日に提出してください。これは、朝に配ったプリントにも書いてありますので、帰ったらご両親にちゃんと渡してください。皆さんから何か連絡事項はありますか?」

 キョロキョロと周囲を見渡す生徒たち。特になさそう。

「では、帰りの会を終わります。日直、号令をお願いします」

「起立、気をつけ、礼!」

「「「さようならー!」」」

 学校の一日が終わる瞬間。教室に一気に開放感が満ち溢れる。この瞬間が、私はとても好き。

 鞄を持ち、友達とバイバイと挨拶しながら、カナタと教室を出ようとした時——拓斗の取り巻きが、こっちを見てニヤニヤしていた。拓斗だけは、カナタを睨んでいた。

 あぁ、せっかく気分よかったのに。あの時の苛立ちが、またふつふつと戻ってくる。

 あんな笑い方しかできないのかな? 無視して、靴箱へ向かった。

 靴を履き替えながら、つい文句を垂れる。

「何で、あんな風に聞くかな!?」

『……でも、先生の説明、勉強になったんじゃない?』

「それはそれ! 私が怒ってるのは、拓斗の“聞き方”! あとその取り巻きっ!」

 私は少し乱暴に靴を履き替え、カナタは丁寧に履き替える。

「教室を出る時も、じっと見てきたし。本当に不快にさせる天才!」

『まぁまぁ……』

 カナタがなだめてくれる。——いけない。またカナタの怒る権利を、私が奪っちゃった。

 反省、反省。

 学校を出ると、空は少し金色になった青色。澄んだ空気が、景色を美しく見せてくれる。

 でも、冬の夕方は寒い。急いで帰って、宿題を終わらせよう。

 白い息が、寒さを物語っている。二月もそろそろ終わるけど、春はまだ遠い。私は首元のマフラーに顔をうずめた。

「寒いね。カナタ、大丈夫?」

『うん。新しい魔法を覚えたから』

「えっ、なになに?」

 カナタは、自分の首元のチョーカー型魔械《マギア》機器を指差す。

『手、近付けてみて』

 言われた通り、私はカナタの首元に手を伸ばす。

すると——ほんのり、温かい。

「わっ! あったかい! これ、何ていう魔法?」

『触れてる付近を温める触覚魔法だって。僕、マフラー使えないから、施設で教えてもらったんだ』

 カナタは、喉に呼吸口があるから、マフラーは巻けない。喉元にある緑色の魔法石とチョーカーの蔓模様が、柔らかく光っている。その横で、小さな歯車がくるくる回っていた。

「小さい魔械暖炉《マギアストーブ》みたい。……あったかい……。首、熱くないの?」

『うん。大丈夫』

「なら良かったぁ。……あったかぁい……」

『気に入った?』

「うんっ! もっとぬくぬくしたいけど、帰らなきゃ。暗くなっちゃう」

 帰り道である街並みは、不思議な調和を持っていた。石畳の道沿いに並ぶのは、瓦屋根の木造家屋と、ステンドグラスをあしらった洋館。格子戸の隣に、アーチを描いたアイアンの門扉が自然と馴染んでいる。

 和風の引き戸を開けると、洋風のシャンデリアが迎えてくれるような、そんな風景がここでは当たり前だった。

 通りを照らすのは、ガス灯を模した魔械《マギア》街灯。夕暮れになると、柔らかな灯りがひとつ、またひとつとともり始める。空気に溶け込むその光が、和と洋、魔法と機械の境界を、そっと包んでしまう。

 そんな光景を眺めながら、カナタとおしゃべりしながら歩いていると——あっという間に、家に着いた。

 私の家は、町の中央通りから一本外れたところの、街灯が並ぶ静かな住宅街の一角にある。

 門扉を開けると、玄関脇のステンドグラスに描かれている、優美な曲線を描く蔓草に囲まれている一輪の百合が、夕陽を受けてやわらかく輝きながら出迎えてくれる。「ただいま」と言って、玄関のドアを開けた。

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